アラフィフおじさんの飽くなき挑戦

本ブログは、アラフィフおじさんが、様々な事に挑戦する中で、感じたことを書き記すブログです。

能動的に生きる

こんにちは。

また最近考えた事について書いてみたいと思います。

皆さんは、人生がつまらないと感じる時はありますか。

もちろん、私もそう感じることは、多々ありますが、大抵、そういった状況は、自分が受け身になってしまっている時が多いと思います。

特に仕事で自分のやりたくない仕事を任された時は、つまらないどころか、憂鬱にさえなりますよね。

一方で、自分がやりたい仕事であれば、多少の困難にも負けないで、その仕事をやり切り、やりがいを感じることができると思います。

こういった例からも覗えるように、人生を楽しめるか、楽しめないかのキーは、自分が能動的に生きれるかどうかに大きく関わっていると思えるのです。

また、受け身の状態は思考停止になりがちですが、能動的な心理状況では、心も頭も活発となり、より多くの事を学ぶこともできるとも思います。

とはいえ、人生のすべての場面において能動的になることはまだ自分には難しく、今、自分がやっていることは少しずつ能動的になれる場面を増やしているといったものです。

しかし、これもよくよく考えてみると変な話で、子供の頃は、そんな事を意識しなくても、今よりも自然に能動的に生きていたようにも思います。

おそらく、大人になるまでに、自分を受動的な姿勢に変えてしまうような考え方をどこかで身に付けてしまったんでしょうね。

よって、自分の場合は、能動的になることを考える前に、このような自分を受動的に変えてしまったバイアスを取り除くことが先なのだと思います。

人生には、自分の知らない素晴らしいものが多くあると思いますが、それは待っているだけでは、永遠に掴むことはできないと思います。

また、受動的である事は、安全であるように見えて、実は逆に多くのチャンスを失うという、危険な状態であるとも言えます。

なので、自分の人生がより豊かなものになるよう、これからは、ただ幸運が訪れるのを待っているだけでなく、より能動的に行動していければと思います。

では、また。

 

サッカーワールドカップから考える日本の課題

こんにちは。

私は、英会話のイベントを自らオーガナイズしており、いつも色んなトピックについて色んな方と議論しているのですが、その中で興味深い意見として、今回のサッカーワールドカップで、日本社会が抱える課題が浮き彫りになったのではないとの意見がありました。

私はサッカーは素人で単純に日本が決勝トーナメントに出場し、日本 のサッカーチームも確実に強くなっているなぁと感心していたところだったのですが、その意見を述べた方はまだ日本のサッカープレイヤーと海外のサッカープレイヤーの間には大きな力の差があると述べていました。

その方によると今回、日本が善戦できたのは戦略とチームプレーによるもので、個人、個人の選手の実力はまだまだ海外の選手に劣るとのことなのです。

日本のサッカーチームでは、チームプレイを重視するのに対し、海外のチームでは選手個人の能力の育成を重視するとのことで、日本のサッカーチームがより強くなるためには、もっと個人の能力を伸すような育成が必要なのではないかとのことでした。

また、これは日本社会全体に共通する問題で、学校や会社においても個人よりも全体を重視する傾向にあり、海外に比べ優秀な人材が育ちにくい環境に日本はあるのではないかともおっしゃっていました。

私もそれなりに大きな組織で働いておりますが、やはり大きな組織ではトップダウンでものごとが決まっていく傾向にあり、 下の人達は上司の指示待ち状態になり、自分達で考えたり、なにかを自分達でやろうというマインドが失われ、確かに人材が育ちにいく環境にあると思います。

一方で、このような環境においては、空気を読んで人と協力する能力というのは養われるのですが、ただ、空気を読んで、 まわりに合わせて働いている人達は、仕事にあまりやりがいを感じられてない(生活のために仕事をしているというスタンス)ようにも見えます。

日本は、先進国の中で国民の幸福度が低い国であると聞いたことがありますが、このような個人よりも、全体を重視する社会の風潮が国民の幸福度を下げているのかもしれませんね。

一方で日本のこのような個人よりも全体を重視するといった文化から、全体への配慮に優れた国民性を生み、色んなサービスや製品、芸術などの質が他国に比べて高かったり、治安が良いことにも繋がっていると感じられます。

また、教育においても、全体的なレベルを上げることを重視する事で、平均的な教育水準が他国に比べ高いといった特徴があると思います。

私個人について考えてみた時、私は生来、自分本意な人間なので、このような日本で育ったことは、とても良かったと感じています。

確かに日本社会のやり方を窮屈に感じることも多々ありますが、制限の中でしか養われないものもあるのは事実で、こういった制限の中で養われた日本人の感性が外国の人達を驚かせ、多くの日本ファンを海外に生み出しているようにも感じます。

これから、グローバル化の流れがさらに加速され、他国からの影響がますます強くなる中で、他国のなにを取り入れて、日本文化のなにを留めていくのか、これからますます私達に選択が迫られていくことになると思います。

もちろん私には正解はわかりませんが、日本の良い文化を残しつつ、悪い部分は他国のやり方を参考にし、日本という国がより素晴らしい国なればと願っております。

そういう意味で、ちょうど真ん中の世代である我々の役割は重要と言えるかもしれないですね。

ただ、外国から来る目新しいものばかりに目を向けるのではなく、日本本来の素晴らしさにも目を向けながら、正しい選択をしていければと思います。

では、また。

 

 

 

努力は才能を越えられるのか?

こんにちは

また最近、考えたことについて書いてみたいと思います。

よく努力は才能は越えられるのかという話を聞きますが、みなさんはこのあたりどのようにお考えでしょうか。

科学が発達したことにより、遺伝によって生まれた時から人間の能力が大きく異なることは周知の事実となっております。

また、私の経験からも、人間は生まれながらに能力に大きな差があると実感するようなことは多々ありました。

例えば、私の子供は、小学生の時にトライアスロンを本格的にやっていたのですが、その中でも、同じような練習をしていても伸びる子と伸びない子の差は歴然でした。
(スポーツの世界は特に才能が大きな差を生むことを示す、代表的な例ですね。)

一方で、興味深いのは、小学生の頃は普通だった子が、中学になったぐらいから急に伸びて、全国レベルの選手になるといったこともあったのです。
(逆に小学生の頃、活躍していた子が、中学になってまったく伸びなくなるということもありました。)

このように個人によって生まれながらに能力の差は確かにあると思うものの、その能力がいつ開花するのかは誰にもわからないのです。

最初のブログで紹介したように、私自身も最近、Youtubeに歌唱動画をあげるようになり、本格的に歌というものと向き合うようになりましたが、ある歌の専門家 によると歌も生まれつきの才能が大きく関わっており、 努力で才能を越えることは難しいと話をしておらました。

音感だけでなく、音域についても骨格や声帯の形から生まれつき決まってしまっているとのことでした。

音域に関しては、私自身、高い声がまったく出なくて、まわりからも「声域は生まれつきのものだから自分の出せる音域で歌える歌を歌えば良いのではないか」と言われ、私自身そういうものだと思って、 無理せずに自分の音域で歌える曲を歌っていました。

しかし、偶然にもファルセットを練習するために女性の曲を原キーでよく歌うようになってから、 今まで出なかった高いキーが急に出始めたのです。
(20年以上歌っていますが、高い声がでるようになり始めたのは 、ホントここ最近の話です。)

要は、自分の場合は、単に高い声の発声の仕方を知らなかっただけのようです。

それからは、自分で自分の限界を決めることはせずに、キーの高い曲も練習しているのですが、今は練習する毎に音域が広がっています。

また、私は英会話が趣味で長く勉強しているのですが、英語の世界でも子供の時に海外で生活した経験がないとネイティブレベルの発音は難しいと言われてますね。

しかし、私は多くの海外移住経験を持たない人達とこれまで会話をしてきましたが、 中にはネイティブレベルの発音ができる人もいます。

ある時に、こういったネイティブレベルの発音ができる人に「あなたは特別に耳が良いのだね」と言ったところ、「それは違う。自分は、正しい発音を身に付けるために、熱心に研究し、より多くの努力をしてきたからだ」と言われました。

科学が発達して色んなことがわかるようになったのは良いことですが、科学は統計から物事を判断しているのみで、統計にあてはまらないような事は現実世界ではいくらでも起こる訳です。

(科学への盲信が逆に弊害を生むことがあると思う訳です。)

だから、私は才能というものが実在することは認めつつも、努力は才能を越えると信じたいのです。

(そう信じないと努力を継続し、自分の可能性の扉を開くことはできないと思います。)

また、歌の話に戻りますが、私は子供の頃、音楽とは無縁の生活を送っており、高校生の時に、友達にカラオケに誘われて、 そこから歌にはまり始めました。

音感やリズム感も人より特別にある方ではなく採点マシーンなどで確認しないと自分の音程とリズムが合っているのか、自分で認識することはできません。

また、何度歌っても音程やリズムがとれない曲もありますし、音域についても先に述べた通りで、はっきりいって課題は今も山積みです。
(プロ歌手とは、雲泥の差があると認識してます。)

しかし、努力を続けていけば、こんな私がプロ並みに歌を歌える日がいつかくるのではないかと信じて練習に励んでおります。

(これは私の才能への挑戦とも言えるかもしれません)

イチロー選手も「自分には才能がなかった。だから、人一倍努力した。私は才能のある人が嫌いだ。」と言っておられたのを聞いたことがあります。

この言葉が、イチローさんの謙遜なのか、ホントの気持ちなのかわかりませんが、少なくともイチロー選手は、才能よりも努力に重きを置いていることがわかりますし、あのイチローさんが、そう思っているかと思うと、非常に励まされますね。

いつか自分のYoutubeの中で「努力は才能を超える」ということを、皆さんにお見せできる日がくればと願っております。

では、また。

 

遠回りが一番の近道

こんにちは。

また、最近、考えたことについて書きたいと思います。

野球選手のイチロー選手が話していた言葉で「遠回りが一番の近道だ 」という言葉があるのですが、たまにこの言葉をふっと思い出します 。
(まだはっきりハラに落ちる理解をできている訳でないのですが、なにか気になる言葉なので、今日はこの事について書いてみようと思 いました。)

自分はどちらかというと常に近道を探そうとするタイプです。
(受検勉強なども要領で乗り切りました。)
このような生き方をして特段、困ったことはなく、今も基本なにかやる時はまず近道を探してしまいます。

ただ、どうもこの言葉が引っかかるのです。
それは、なにかこの言葉が大切な真理を含んだ言葉であるように感じられるからです。
実際に、イチローさんは、このような考え方のもと、野球史に記録を残すような偉業をいくつも成し遂げてこられた訳です。

イチローさんは、非常に努力家で有名な方です。

また、非常にものを大切にされる方で練習後に時間かけて自分のグローブやスパイクなどを入念に磨くことでも有名でした。

ある意味、他の選手がやらないようなことをずっとやり続けた人であるとも言えます。

だからこそ、他の選手には見えないような視点がイチローさんには見えるのかもしれません。

私なりに自分の人生経験から解釈すると、確かにこれまでの人生において無駄な経験は一つもなかっと思っています。

失敗に関しては人一倍した方であると思いますが、失敗ほど貴重な 経験であったとも感じております。

また、人が気にしないようなつまらないことを気にしたり、時間やお金を無駄にしたりと無駄と思える色んな事をしてきました。

しかし、そういう経験も自分と同じような問題を抱えている多くの 人がいる中で、 そういう人達を理解する時に役に立つこともあります。
(例えば、子供が怠けていても、自分も学生時代そういうこともあったと許せたりすることがあります。)

イチローさんが言わんとしてることはもっと深い話だと思いますが 、特に努力に関して言えば、自分の望む結果が得られなかったとしてもやった努力はその人を何かしらの形で成長させてくれるものだと思います。

また、努力しないで得た結果と、努力をして得た結果は、同じ結果でもその経験から学ぶものは大きな違いがあるように思います。

また、最短の努力で目標に到達した人と、多くの努力をして 目標に到達した人では、なにか人間的な深さのようなものが違うとも感じます。

もしかしたら、イチローさんが言いたいのは、正解にたどり着いて得られるもの自体よりも、努力を積み上げるというプロセスの中で得られることの方が価値が高く、結局、そういったものを積み上げた人の方が最後には成功するのではないかと思っているのかもしれないですね。

(成功といっても色んな意味の成功がありますが。)

また、先に述べたように私は常に近道を探して、すぐに成果を求めてしまうところがありますが、遠回りを一番の近道と思うことができれば、腰を落ち着けて、もっと大きな視点で物事を捉え、長く努力を継続していけるのかもとも思いました。

今は時代が効率性を求める時代なので、このような考え方を受け入れるのはなかなか難しいですが、これからもこの言葉を心の 片隅において、短期的な成果が出なくても焦らずに、努力を積み上げていければと思います。

では、また。

この世の中で最も恐ろしいものとは?

こんにちは。

今日も、また最近、考えた事を書いてみたいと思います。

皆さんが、最も恐れるものはなんでしょうか。

人によって、死ぬのが怖い、病気になるのが怖い、経済的な安定を失うのが怖い、愛する人を失うのが怖いなど恐れるものは違うと思います。

子供の時は、私にとって一番怖いことは死ぬ事でした。

よく母に人は死んだらどうなるのかと聞き、母には、人は死んだら無になるのだと言われたのですが、また今度は無というものが想像もつかないものなので怖くなり、夜眠れないことがありました。

今も、死んだ後の事は想像はつきませんが、今まで人生の中で様々な未知な事を経験する中で、どんな事も自分の想像よりも怖いものではなかったので、死もそんなもんだろうぐらいに思うようになってきました。

そして、今、私が最も恐れているものは、人間が抱く恐れや不安を生み出すネガティブな妄想です。

特に、人間は、未知なるものと対峙する時や自分になにかしらの災いが襲いかかる可能性がある時は、だいたい良からぬ妄想を抱くものです。

初対面の人と会う時や、新しい職場で働いたり、偉い人の前でプレゼンする時などは大抵緊張するものです。

私は、この妄想が自分を必要以上に疲弊させ、自分の人生を窮屈にしていると思うのです。

そして、人生を振り返ると、このつまらない妄想のために、人生をより豊かにしたであろう多くのチャンスを失ってきたとも感じてます。

今回は、この妄想をいかにコントロールするかということについて、これまでの経験から、整理できればと思います。

まず、大抵の不安や恐れは、ただの妄想から来ていると知るだけでも、少し気持ちは軽くなると思います。

(ここで言いたいのは、恐れや不安を絶対的なものだと信じて、それを深刻に受け止めてしまう傾向が人間にはありますが、それらは実は自らが創り出した相対的な感情でしかないと認識するという事です。)

また、自分の状況を第三者の視点で眺めたり、強い気持ちをもって自分が恐れている事に敢えて正面からぶつかってみたりする事も時に有効だと思います。

(よく私はネガティブな感情を持つとよくそれを紙に書き出すのですが、これにより問題を客観的に捉える事ができ、気持ちが落ち着くことがあります。)

さらに、ネガティブな妄想は、大抵、体調が優れないときや気分が落ちている時に起こりがちです。

なので、常に体を良い状態に保つことと、気分を高く保つために多くの人と触れ合ったり、自然と触れ合ったり、自分が心から楽しめるものに打ち込むといった事も良いと考えてます。

また、ネガティブな妄想は、うまく導けば大きなポジティブなエネルギーに変換できるという事もあると思います。

例えば、死を目前にした人が、人格が一変して、素晴らしい人になったりという話も聞きます。

そして、最近は、ネガティブな妄想を抱くような場面に接すると、少しワクワクする感覚を持つようにもなってきました。

なぜなら、そのような経験を通じ、よりネガティブな妄想をコントロールするすべを学び、妄想が生み出すエネルギーを自分を向上させる力に変えられるかもしれないと思うからです。

人間の心とは自分の心でありながら、なかなかコントロールが効かないものですね。

これからも自分の心をうまくコントロールするすべを学び、理想の人生を歩んでいけたらと思います。

では、また。

持つべき自信と持つべきでない自信

こんにちは。

また最近、思ったことを書いてみたいと思います。

子供とのなにげない会話の中で、自分が
「自信を持っている人は自分の能力を十分に発揮することができるが、自信がないと自分の持っている能力を十分に発揮できない。なので、まずは自信を持つことが大事」
だというような話を子供にしたところ、子供から自信を持っている人はクラスのみんなから嫌われているよといった返しがありました。

会話は、そこで別の話になってしまい、それ以上、深く話をすることができなかったのですが、その後、改めて自分の中でどのような自信が良い自信でどのような自信が良くない自信なのかを考えてみました。

実は、私も子供の頃は自信過剰なところがあり、友達に上から目線で物を言ったりして、嫌われたことがありました。
(一方で、勝負事になるその自信の強さが発揮されて良いこともありました。)

職場でも、上から目線で嫌な人だけど、仕事はできるといった人は結構いると思います。

このように私の子供が言うようなことは現実社会の中ではよく目にします。

だから、私達は、自信を持った方が良いのか、自信の持ちすぎはよくないのか、よく迷ってしまうのだと思います。

私は子供にも話をしたように自信は絶対に持った方が良いと思っています。
しかし、自信を持つときに以下の3点を気を付ける必要があると思います。

①非現実的な自信を持たないこと
②他者との比較から自信を持たないこと
③他者の自信も自分と同様に重んじること

①について、時として、思い込みが自分を実力以上に高めてくれる事もありますが、やはり非現実的な自信を持っている人は失敗することが多いと思います。

特に非現実的な自信を持っている人というのは、自分の失敗の原因や周りの状況など、現実を的確に分析できない傾向があるため、失敗から学ぶ事なく、同じ過ちを何度も繰り返してしまう恐れがあると思います。
(また、自分の失敗を他人のせいにする傾向もあると思います。)
現実においては、正しいプロセスを経て、初めて自分の望む結果を得られると思うので、自己を客観的に分析し、事実に即した自信を持つべきだと思います。

②についても、自信がない人が他者と比較する事で自信を持つきっかけを得たなどという話も聞くので、完全に悪とは言い切れないのですが、このような相対的な自信はありのままの自分を認める事の妨げとなり、最終的に自己肯定感を下げてしまうと思います。
なぜなら、自信を得るために常に他者と競わないといけないですし 、すべてにおいて他者に勝ることはできないので、逆に自分から自信を奪ってしまうことにもなると思うためです。

③については、人間はやはり自分が一番好きなので、自分の事を一番に信じたいと思ってしまう生き物だと思いますが、それは他者も同じであることを配慮した上で、他者への立ち振る舞いを行っていく必要があるということです。

一方で、子供が持つ自信は、だいたい①、②から来る自信が多いと 思いますが、私は初めはそのような自信の持ち方で良いと思っています。

なぜなら、自信がない状態よりも、間違った自信を持っている状態の方が、一段上だと思っているからです。

また、間違った自信を持っているという状態は、正しい自信を持っているという状態に移行するための必要なステップ(自信の大切さを学ぶステップ)であり、このステップを飛ばして、自信のない状態から正しい自信をもった状態にはなかなか一足飛びには移行することは難しいとさえ感じています。

そして、今、私が大切にしたいと思っている自信は以下のものです。

①人はなに者にでもなれる
②人生に解決できない問題はない
③あるがままの自分でいる事に最大の価値がある

①については、これまでの人生経験から自分自身を型にはめて捉えてしまうところがあるので、自分で自分の可能性を制限しないように持ちたいと思っているものです。

②はなにか難しい困難にぶつかった時は、いつもこの言葉を思い出し、自分を奮い立たせており、そのお陰でいくつもの困難を乗り越えて来れたと思うので、これからもこの信念を持ち続けたいと思っています。

③については、他者と比較しないということもそうですが、すべてのモノが大切で、お互いに必要となるように、この世界は創られており、自分は自分らしくいる時に最大の価値があると信じたいと思っています。
(実際に生物学、物理などを学ぶと、この世界が無駄なく、よく作られた世界であることが見えてくると思います。)

何よりもこの信念を受け入れる事で自分にも他人も優しくなることができると思います。

 

私自身、まだまだ誤った自信を正しい自信へと発展させるべく、取り組んでいる段階ですが、自信は日々の言動の積み重ねで構築されていくものだと思いますので、大切にしたいと思う信念に基づき日々の生活を行っていければと思います。

また、私には、4人の子供がいますが、子供達が正しい自信を持って、自分の望む人生を実現してくれるよう、まず私が子供達のロールモデルになれればと思います。

では、また。

 

成長を続けるための秘訣とは?

こんにちは。

久々ですが、また最近、考えたことを書いてみたいと思います。

みなさんはいくつになっても成長できる人になりたいと思いますか。

私は、いくつになっても成長したいと強く思ってます。
(ある意味、それが私の生きがいとも言えるかもしれないです。)

そこで、今日は、私が気付いた成長を続けるために大事だと感じたことについて書いてみたいと思います。

成長を続けるためには、まず成長したいという強い気持ちがあることは大前提なのですが、人によっては、成長したいと思っていてもなかなかうまく成長できないという経験をお持ちだと思います。

私も、若い頃はなにかできるようになりたいと思っても、あるレベルから上にはまったく上がれない(壁にぶつかる)ということがありました。

そして、そのまま、自分には才能がないのだと、諦めてしまっていましたが、今、振り返ると成長を続けるために必要な事がわかっていなかったと感じています。

自分の場合、この壁を越えられなかった大きな原因は、自己流に拘り過ぎた事にあったと思います。

自己流に拘ること自体は悪いことだとは思わないのですが(むしろ良い面も多くある)、自己流に拘りすぎると外からの情報をシャットダウンしてしまい、自分に必要な情報が入ってこなくなってしまいます。

特に若い頃は、私は人からアドバイスをもらうことが嫌いでした。

もちろん、アドバイスの中には有益なものがあることを知っていましたが、正解は一つではないので、自分なりの正解を自分で見つけたいと思っていました。

この点に関しては、基本、今も同じ考えですが、自分が見落としていたことは、自分なりの正解は、自分が持っている情報や経験に応じて変わるということです。

私達が、他人のアドバイスを受入れ、それを試した時、私達は、自分一人では得ることがなかった新たな経験を得ることができます。

その経験の中から得たものが自分には必要のないものであれば、それを取り入れる必要はないですし、それが良いと思えば、それを取り入れていくことで、自分一人では開くことができない可能性の扉を開いていくことができます。
(もちろん、すべてのアドバイスを試すことはできないので、ある程度、関心を持てるアドバイスから取りいれていく必要はありますが。)

また、人は自分の事は的確に分析できないが、他人の事は的確に分析できるという傾向があります。

例えば、人生の悩みなどを他人に相談すると、子供ですら的確なアドバイスができたり、素人の親が自分の子供を一流のスポーツ選手に育てたりという事があるのです。

こういった観点から、人にアドバイスをもらう事は非常に大切だと最近はしみじみ思うのです。

そしてさらになにか自分ができるようになりたい事があるなら、可能であれば、それをなるべく多くの人が見ている場で行うのが良いと感じています。

例えば、歌がうまくなりたい人はなるべく多くの人の前で歌う、スピーチがうまくなりたい人はなるべく多くの人の前でスピーチするなどです。

こういった環境ではより多くの人からアドバイスをもらえるだけでなく、人に見られている緊張感が自分の中の本気度を一段も二段も高めてくれます。

私は、自分の歌唱動画をYoutubeに上げていますが、自分一人でカラオケにたまに行って、歌っているぐらいでは、ほとんど進歩しなかった歌唱力が、Youtubeをアップするようになってからは、日に日に向上していると感じています。

それは、この多くの人に見られていて、アドバイスをもらえるという環境が自分の中の本気度を上げ、また視野を広げてくれているためだと思うのです。

人になにか言われるのは、傷つくこともありますが、私はその傷すらも、成長するために必要なエネルギーだと思っています。

バンドの「世界の終わり」の歌の歌詞に「僕の知っているヒーローは笑う方ではなく、笑われる方だ」というような歌詞があったと思いますが、これはよく真理を表した言葉だと思います。

傍観者ではなく、自分でなにかやろうと思ったら人から笑われたり、批判されることを免れることはできません。

しかし、こういった冷笑や批判の中で、もがきながらも経験を重ねていく事こそが、実は成長への近道なのではないかと思うのです。

なので、これからも傍観者ではなく、常にプレイヤーとして、人に見られているところで、主体的に行動し、人のアドバイスだけなく、冷笑や批判すらも糧にして、成長を続けていけたらと思います。

では、また。